My America

世界中どこでもジョギングをし、ジーンズかショートパンツにスニーカーで過ごす。地球を救うのはいつでもアメリカ人で、警察官はドーナツとコーヒーを好み、ハンバーガーとコカコーラの食事の一方で、スシやトーフをもてはやす。これが、映像や書かれたものから切り貼りした、かなり乱暴な私のアメリカ人像である。

しかし正直なところ、美味しいものを食べて生きている人々、という印象は薄い。世界的に有名なジャンクフード大国の食事情は実際のところどうなっているのだろう?


陳腐だと言われようがなんだろうが、映画に登場する、場末のダイナーのボリューム満点の朝食や、深夜の職場のシーンの四角い箱に入ったデリバリーのチャイニーズは、私の憧れのうちの一つである。幾度となく目にするうち、これがアメリカ人の常食だと刷り込まれてしまったらしい。


 

もうひとつ「アメリカ的食卓」といわれて思い出すのは「クレイマー、クレイマー」(ロバート・ベントン/1979)のワンシーンだ。この映画ではフレンチ・トーストをつくるシーンが有名だが、私には二人きりになってしまった親子が使い捨てのアルミプレートに入った夕食をとるシーンの方が印象に残っている。オーブンで温めるだけのTVディナー。味も素っ気もなさそうな、コチコチのステーキと付け合わせのグリーンピース。調理の過程のない寒々しい食卓のシーンだが、あのアメリカ的な一皿はどんな味がするのか。途方に暮れた父と息子、二人だけの暮らしのスタートを説明するとても重要なシーンではあるのだけれど、それより何よりあのディナーセットを食べてみたい、という興味の方が勝っている。あのプレートを食べたら、アメリカという国の一端が本当に腑に落ちて分るような気がするのだ。



「シェフとギャルソン、リストランテの夜」(スタンレー・トゥッチ/1996)では、1950年代のニュージャージーにあるリストランテが舞台になっている。本格的なイタリア料理を作りたいシェフに対して、「ミートボールのスパゲッティを作らなきゃ客は入らない」という弟の台詞が印象的だった。ミートボールのパスタ、といえば「わんわん物語」(1955)。きっとその頃のアメリカにおいて「スパゲッティ=ミートボール入り」という図式が出来上がっていたのだろう。カリフォルニアロールやTERIYAKIが生まれたように、その土地の食材と味覚の許容度、そして小さな誤解や思い込みが重なりながら、食べ物は新しい形を得て根付いて行くのかも知れない。


アメリカの食事情をまとめた「食べるアメリカ人」(加藤裕子・著/大修館書店)では、広いアメリカのその食の歴史を、個人の感想も含め一冊の本にまとめている。2003年に初版が発行されていることを考えれば、10年近く経った今の状況と違いはあるにしろ、なぜ冷凍食品や缶詰やファーストフードがここまでまかり通ってしまったのか、そして今のアメリカの食事情はどうなっているのかを紐解くのにとても役に立つ書籍だ。

本書を読む限り、忙しい生活の中から「手を掛けて料理をする」という日常行為を軽減するために、様々な加工品(缶詰や冷凍食品、ソースやスライスチーズなど)、1人前から配達してくれるデリバリーメニュー、ファーストフードやサプリメントが開発され、大多数のアメリカ人の食卓をつくっているようだ。

どの国でも起こっている日々の忙しさ故簡便に食卓を整える流れが、移民・開拓によってつくられたこの広大な国では顕著に、そして急速に広まったのだろう。


そうは言っても、週末にはファーマーズマーケットがあちこちで開催されているし、伝統料理は各地で受け継がれ、近年映画になった「ジュリー&ジュリア」(ノーラ・エフロン/2009)にみる、家庭で出来る本格フランス料理のTV番組がある(私にはカナダで制作された「世界の料理ショー」の方が馴染み深い)。「食べるアメリカ人」で紹介されている、ニューオーリンズやカリフォルニアの美食の数々、古いところでは開高健が絶賛したグランド・セントラルステーションのオイスター、ニューヨークで味わえる本場の各国料理もまたアメリカの味なのだ。当然ながら一口に「アメリカの食卓」は語れるものではないことが、この本を読んでみるとよく分かる。


  ハンバーガーにホットドッグ、スライスチーズ、ケチャップ、フライドチキン、ポテトチップスやピーナッツバター。普段は節制しているけれど、時々無性に食べたくなるものばかり。日本流にアレンジされているとはいえ、これが私の知るアメリカの味だ。どれも恐ろしい中毒性をもつ、魅惑のジャンクフード。この巨大で多面的な国から生み出された食を、いまさら私の暮らしから完全に消し去ることは難しい。

しかしこの国を訪れる機会に恵まれたのなら、私の知らない温かくて、美味しいアメリカに出会ってみたいものだ。