ともだちは海のにおい

むかしむかし、渋谷に「童話屋」という本屋があった。
渋谷区児童館があった坂道の、真ん中よりは青山通りに寄った辺り。
こちゃこちゃした雑貨や漫画やなんかは時々しか買いに連れて行ってもらえないけれど、本はあまり頓着せず買ってもらえる家だった。
渋谷東急プラザの紀伊国屋書店、銀座のIENAや文教堂、目黒の駅前にあった名前も忘れちゃったところ(確かここも一時期WAVEだったような曖昧な記憶)、六本木の青山ブックセンター、渋谷のLOGOS、クレヨンハウスに、六本木のWAVE、近所の本屋さん・・・好きだった場所はほかにもあるけれど、いまとなって一番思い出深い本屋はこの「童話屋」かもしれない。雨の日に行くと、透明なビー玉がコロコロ入ってリボンで口をきゅっと閉じた小さな袋を、「雨の日プレゼント」といって本と一緒に手渡してくれた。
「ともだちは海のにおい」(工藤直子/長新太)はそこで買ってもらった本。
今でも一番大切な本のうちの一冊。

ほかにもたくさん本を買ってもらったのに、買ってもらったときのことを覚えているのはこの本くらい。
母に連れられて童話屋に行き、好きな本を選んでいいよ、と言われた。
ずいぶん時間を掛けて選んだと思う。そして私が選んだのは灰谷健次郎の、確か「我利馬の船出」だった。小学校低学年の私には少し大人っぽすぎる内容だったと思う。
母は本を見て少し考え、こっちにしたら?と「ともだちは海のにおい」を手渡した。
私は違うのが欲しいのに、とても不満だった。
多分、やだこっちがいい、くらいのことは言っただろうと思う。
最終的にお財布権者の母から、こっちにしなさいと言われ、渋々「ともだちは海のにおい」を買ってもらった。そして家に帰って本を開いたその時から、「ともだちは海のにおい」は私の宝物になったのだ。

とても大雑把にこの本を説明するなら、紅茶と体操が好きなイルカと、ビールと本を愛するクジラが出会ってともだちになる話し。
こども向けの本だけれど、ビール好きな登場人物というのがとてもいい。クジラの口の中が書斎になっていて、散歩の途中でも本を取り出して一休みしながら本が読めるのが、心から羨ましかった。クジラがホットケーキを焼くところもとても好きだったので、多分自分でもつくろうと思ったに違いない。行の始めにちいさく鉛筆で丸がついていて、いまでも消さないままになっている。

 

詩と物語とが、一冊のなかでならんで寄り添って膨らんで、言葉の海の深さとひろさを教えてくれる。
文字の合間合間に長新太さんのユーモラスな線が楽しく踊っていて、わくわくするというよりはもっと優しい、穏やかで愛らしい物語のつまった本当に素敵な本なのだ。
この本を好きになってくれそうなひとや私が好きなひとに出会うたび、半ば強制的に貸したり、おススメしたり、贈ったりしてきた。

本を読むのが好きという割に扱いは悪くて、ベッドに寝転がって読むか、おやつを食べながら読んだりして、たいていの本は皺や染みやナンカがついている。年を経るに連れ、子どもの頃より大切に扱うようにはなったけれど、紅茶とベッドと本の組合せが至福なのは今も変わらない。きっとクジラとイルカの影響に違いない。

ところでこの本を買ってくれたときの母は予見していたのだろうか。私がビールと紅茶と本(と時々運動)が必須なオトナになることを。

2017.06.30